CHIBA UNIVERSITY

もっと知りたい千葉大学
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留学生教育の拠点だった千葉大学

千葉大学には1960年から63年まで「留学生課程」、64年から72年まで「留学生部」が置かれ、全国の国立大学理科系に3年次編入を希望する国費留学生の日本語や基礎科目の教育が3年間の課程で行われていました。 この課程があったのは、千葉大と東京外大の2校だけで(外大は文系学生を担当)、千葉で学んだ留学生の総数は433名(20の国・地域)に上ります。 この伝統は1991年創設の留学生センター(のち国際教育センター)に引き継がれていきます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

「留学生部」は南門のそばにあった(1965年)

何度も変わった「みどり台駅」の名称

1923年に最初に設置された時の名前は「浜海岸駅」で、駅の西側まで海が迫っていました。 しかし、1942年、駅の東に東京帝国大学第二工学部(現西千葉キャンパス)が開設されたため、「帝大工学部前駅」となります。 1948年には「帝大」を取った「工学部前駅」に変わり、東大工学部が廃止された1951年からは「黒砂駅」に変わりました。 しかし、駅の所在地が「緑町」であったため、1971年に「みどり台駅」となります。なんと4度目の改名でした。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

京成電鉄「みどり台駅」

亥鼻キャンパスにある「ヒポクラテスの木」

「医学の祖」ヒポクラテスの胸像が医学部新館の玄関正面(4階部分)に据えられています。これは、イタリアのウフィツィ美術館が例外的に複製を認めた五体中の一体できわめて貴重な像とされます。 また、旧正門正面の庭内左側および附属病院の前庭には、ギリシャから頒けられた「ヒポクラテスのすずかけの木」が立っています。 像も木もそばに由来の説明がありますが、これらは若き医学徒に「ヒポクラテスを鑑とし《医の倫理》を学んで欲しい」と願うOBから各々寄贈されたものです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

ヒポクラテスの胸像

亥鼻キャンパスに大木と祠がある理由

「七天王塚」と呼ばれ、それぞれ「牛頭天王」が祭られています。 この塚は、亥鼻キャンパス内に五つ、外に二つあり、源平期から戦国期まで当地を支配していた千葉氏の守り神を祀っているとされます(上から見ると、北斗七星状に配列されています)。 「平将門に関わる古跡だ、枝を切ると祟りにあう」等の伝承もあり、千葉大学随一のパワースポットと言えるかもしれません。 なお、樹種はタブが多く、樹齢数百年の大木もあります。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

七号塚

かつて松戸にあった工学部のキャンパス

工学部は、1922年4月、東京・田町に開校された東京高等工芸学校をルーツとしています。同校は、工芸図案や金属工芸、印刷・写真などが学べるきわめて特色ある官立学校でしたが、1945年5月の空襲で焼失したため、戦後の同年10月千葉県松戸市岩瀬の元陸軍工兵学校跡に移ってきました。 そして、1949年、千葉大学工芸学部として再出発します(51年に工学部に変更)。 そのため、キャンパスは、1964年までの20年間、松戸に置かれていました。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

松戸時代の工学部本部

医学部に残る「国際支援」の史跡

1911年に辛亥革命が起こった際、千葉医学専門学校(当時)には、40名余の清国留学生がいました。 彼らが「赤十字隊を結成し、敵味方ない人道的救援に赴きたい」と訴えたのを受け、教職員や学生が医薬品購入のため義援金を拠出し、さらに教員たちは緊急医療技術を伝授しました。 復学した留学生たちが、学校関係者に感謝するため建てた「紀念碑」は、今も旧医学部本館前にあります。この碑は国際支援・交流の得難い証人と言えるでしょう。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

医学部に残る「国際支援」の史跡

千葉大学学章、デザインの意味

これは、千葉大学の頭文字「C」と「D」を重ね、さらに「千」の文字を加えたデザインから構成されています。 形は無限の生命力を象徴する植物の種子をイメージし、赤色は情熱を、白色は純粋を表現しています。 大学創設時の1949年に171点の応募作品の中から選ばれたこの作品は、工芸学部(当時)講師の赤穴宏氏の作品でした。 赤穴氏は、60歳まで工学部教授を務めた後、武蔵野美大油絵学科教授に転出し、洋画家としても多くの作品を残しています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

千葉大学学章

千葉大学発足後、資金不足を補うため実施した意外な方法とは?

千葉県の主催で、1949年冬に実施された「千葉大学振興宝くじ」です。それを大学や会社、各市町村を通じて販売しました。 また教職員や学生にも割当枚数があり、自らの教学環境を整えるため、北風の中、知人や市民に売り捌いたそうです。 その結果、一千万円ほどの収益があがり、いくつかの建物の新築が叶いました。新制大学を作り上げようとする教職員・学生・地域社会の熱意の賜物であったと伝えられています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

千葉大学振興宝くじ

園芸学部にかつてあったアメリカ式の庭園

園芸学部の四季を今も彩るサンクガーデン(フランス式庭園)、前庭(イタリア式)、新庭園(イギリス式)は、1910~14年に教員と学生が協力して造りあげたものです。 さらに、刈込式のアメリカ式庭園や枯山水の日本庭園、また牡丹園もあり、そこを訪れた与謝野晶子が詠んだ歌も残っています。 後三者は、戦後の校地整備で消滅しましたが、その他の庭園群は、2009年、日比谷公園などとともに、近代造園遺産に選定されています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

園芸学部のフランス式庭園(完成当時)

千葉大学発足時に構想されていた幻の学部とは?

1948年の「千葉大学設置申請」には、千葉地域の特色を活かすため、水産学部・畜産学部の構想も掲げられていました。特に、水産学部については、「三方を海に囲まれ、漁業が盛んだが、漁法などは古く停滞している現状を、科学的に啓蒙する指導者・技術者を養成したい」とする千葉県当局が、館山市への設置を訴え、経費の一部を負担する準備をしていました。 また大学側も積極的な姿勢を見せていたのですが、東京水産大学設置が先行したこともあり、結局、幻に終わりました。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

西千葉キャンパスの隣りに、東京大学生産技術研究所があるのはなぜ?

西千葉地区は、1942年に「東京帝大第二工学部」として開かれた場所で、その10年後には「東京大学生産技術研究所」となりました。 一方、1949年に誕生した千葉大学は、校舎が市内3カ所と松戸市2カ所、また四街道市にも分散しきわめて不便でした。それを解消するため、東大敷地中の8割を千葉大の拠点キャンパス地として譲り受けたのです(2割は実験所として残された ※2012年10月時点)。 移転整備が始まったのは、1962年のことでした。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

1948年の西千葉(東大第二工学部)の航空写真
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