1915年に千葉県立高等園芸学校(園芸学部の前身)を卒業した土岐章(1892~1979)は沼田藩(群馬県)藩主土岐頼知の子息で、1918年には子爵となります。ドイツ留学の経験があった土岐は、1924年に渋谷にドイツ風の洋館を建てました。その後、1990年に所縁の地・沼田市に移築され、登録有形文化財として公開されています。沼田市内には千葉大学の森林環境園芸農場もあり、不思議な縁を感じるところです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
稲毛区小仲台に1965年に建設され、2016年3月に閉寮された稲毛寮が、この夏に解体されます。1部屋に2名が住み、定員は208名でしたので、50年で10,000名近い学生が青春の日々を過ごしたことになります。壁には落書きやシールなど当時の生活のあとが色濃く刻まれています。1990年代までは寮祭が行われ、手作り神輿や仮装行列が駅周辺まで練り出し、町の名物行事だったそうです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉大学では2012年からグローバル人材育成プログラムを開始し、現在は非常に多くの国(地域)の大学と学生交流協定を結んでいます。アラバマ大学(アメリカ:1984年)、湖南大学(中国:1985年)なども古くからの協定校ですが、その第一号は、1982年に協定を結んだドイツのゲッティンゲン大学でした。 留学は他に代えがたい経験です。積極的に挑戦してみませんか? (大学院国際学術研究院 見城悌治)
松戸にある園芸学部に隣接する農場が手狭になったため、1991年、アメリカ軍柏通信所跡地を譲り受け、広さ25haの「柏農場」が新設されました。 その後、土地の一部を東京大学へ割譲し、現在の「環境健康フィールド科学センター」を2003年に設立。「環境健康学」の拠点として再スタートしました。 2005年には、つくばエクスプレスの駅が設置されたことも併せ、千葉大学の新しい顔となりました。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
『千葉大学五十年史』(1999年)には、1985年頃の千葉大生のイメージイラストが掲載されています(同年発行の『千葉大生白書』からの再収録)。 作者は、7学部で異なる学生イメージをユーモアたっぷりに描いています。 『五十年史』は、「この頃の千葉大生は流行に左右されず、地味であった」と解説していますが、現在はどうなのでしょうか。
千葉県南部の鴨川市にある千葉大学海洋バイオシステム研究センターに「こみなと(小湊)水族館」があります。 このセンターは、1932年に設置された水産講習所(現東京海洋大学)付属実験実習場をルーツに持ち、現在は海洋環境とそこに生息する生物の相互関係を研究しています。 水族館は、隣接する展示室ともども、房総の海に棲む生物の研究成果を広く公開しています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
1955年に誕生した学歌の作曲は平井康三郎、作詞は勝承夫です。 平井は東京音楽学校等の教員を務めながら、合唱曲や全国各地の校歌を多く作曲しており、最適任者とされました。一方、作詞は著名な詩人・三好達治に依頼する予定でした。 しかし、平井が、「三好の詩は『見る詩』であり、『朗読する詩』であるため、自信をもって引き受け難い。勝の作品ならば、作曲できる」と答えたため、勝承夫に作詞を依頼したと伝えられます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1923年に最初に設置された時の名前は「浜海岸駅」で、駅の西側まで海が迫っていました。 しかし、1942年、駅の東に東京帝国大学第二工学部(現西千葉キャンパス)が開設されたため、「帝大工学部前駅」となります。 1948年には「帝大」を取った「工学部前駅」に変わり、東大工学部が廃止された1951年からは「黒砂駅」に変わりました。 しかし、駅の所在地が「緑町」であったため、1971年に「みどり台駅」となります。なんと4度目の改名でした。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
これは、千葉大学の頭文字「C」と「D」を重ね、さらに「千」の文字を加えたデザインから構成されています。 形は無限の生命力を象徴する植物の種子をイメージし、赤色は情熱を、白色は純粋を表現しています。 大学創設時の1949年に171点の応募作品の中から選ばれたこの作品は、工芸学部(当時)講師の赤穴宏氏の作品でした。 赤穴氏は、60歳まで工学部教授を務めた後、武蔵野美大油絵学科教授に転出し、洋画家としても多くの作品を残しています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉県の主催で、1949年冬に実施された「千葉大学振興宝くじ」です。それを大学や会社、各市町村を通じて販売しました。 また教職員や学生にも割当枚数があり、自らの教学環境を整えるため、北風の中、知人や市民に売り捌いたそうです。 その結果、一千万円ほどの収益があがり、いくつかの建物の新築が叶いました。新制大学を作り上げようとする教職員・学生・地域社会の熱意の賜物であったと伝えられています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1948年の「千葉大学設置申請」には、千葉地域の特色を活かすため、水産学部・畜産学部の構想も掲げられていました。特に、水産学部については、「三方を海に囲まれ、漁業が盛んだが、漁法などは古く停滞している現状を、科学的に啓蒙する指導者・技術者を養成したい」とする千葉県当局が、館山市への設置を訴え、経費の一部を負担する準備をしていました。 また大学側も積極的な姿勢を見せていたのですが、東京水産大学設置が先行したこともあり、結局、幻に終わりました。(大学院国際学術研究院 見城悌治)