東京高等工芸学校(現・工学部)は、やなせたかし氏が学んだ工芸図案科だけでなく、木材工芸科も個性的な存在でした。畳からイス・テーブル生活への転換、台所の合理的空間への改良などを持論としていた木檜恕一(こぐれじょいち)教授は、1924年の自邸新築に際し、新時代に相応しい間取りや室内装飾を備えた洋式スタイルを実践します。他の教員もそれにならい、同様な自邸を建てていきました。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉師範学校(現・教育学部)の最初の修学旅行は、1888年に実施された房総半島を徒歩で一周する企画でした。全行程は二週間で、道々、動植物採集や学校参観をしましたが、街場に入ると、軍人と同様の衣服を来た学生が、先頭のラッパに合わせ行進をしたそうです。一方、県外に出たのは1890年からで、上野の内国勧業博覧会見学を主目的に、一週間かけ市内の学校見学などもしました。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉師範学校女子部( 現・教育学部)は、太平洋戦争末期、「学校工場」が校内に設けられ、戦時体制に組み込まれました。そうしたなか1945年6月10日、蘇我にあった日立航空機千葉工場とともに空襲に遭い、生徒8名と教職員2名が亡くなりました。1968年、犠牲者の追悼と女子部の存在を記憶するための碑が、当時校舎があったJR千葉駅の駅前大通りに建てられています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
戦後、千葉大学が誕生した際の校地は、亥鼻・松戸・小仲台・四街道などに分散していました。西千葉地区は、東京大学生産技術研究所跡地に少しずつ校舎が建てられ、松戸から工学部が移転した1965年に完成します。興味深いのは、完成当初、大学本部と工学部の間を通る弥生通りのけやき並木と桜並木の大きさが今と全く異なっていたことです。60年近くの歴史を経て、西千葉の風景も日々変貌しつつあるのです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1915年に始まった全国中等学校優勝野球大会に、千葉県勢として初出場したのは、千葉県師範学校(千葉大学教育学部の前身)でした。1926年の南関東予選で、7点先行した水戸中学から8点取り、サヨナラ勝ちしたのですが、22校による本大会は、初戦で新潟商業に4-9と敗れました。同校の出場は、その1度だけでした。一方、戦前期の千葉県では、千葉中学校( 現在の県立千葉高等学校)が最多の4回を数えます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
コロンビアの著名な風景画家ゴンサロ・アリサ氏(Gonzalo Ariza:1912~95年)は、1936年頃に工学部の前身である東京高等工芸学校に留学生として半年ほど在籍し、そこで写真や印刷を学びました。茶道や陶芸にも深い関心を寄せたほか、日本の自然観を踏まえた絵画技術を修め、懇意となった藤田嗣治とも交流を深めたそうです。1955年には駐日コロンビア大使館の文化担当一等書記として再来日し、東京で個展を開くなど、日本との文化交流にも貢献しています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1949年に誕生した新制千葉大学に、本格的な文系学部が設置されたのは、文理学部が改組され、人文学部と理学部が生まれた1968年のことでした。人文学部は1981年に文学部と法経学部(2014年法政経学部と改称)へと発展し、人文科学と社会科学について、より深く学びかつ研究する態勢が完成しました。それから40年が経ち、両学部の存在意義はますます大きくなっています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
工学部の前身校は、JR田町駅の南西にあった東京高等工芸学校でした。 1924年11月に東京放送局(現在のNHK)が誕生した際、仮放送所は同校の図書室に置かれました。そして翌年3月22日、そこから、日本最初のラジオ放送が行われたのです。 その後、放送局は愛宕山に移転し、7月から本放送が開始されます。そして現在、東京・田町の学校跡地には、「放送記念碑」が建てられています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
南門を入ってすぐのY字路に立っている瀟洒(しょうしゃ)な建物は、工学部の施設です。 同学部の前身校に当たる「東京高等工芸学校」の創立40年記念会が1961年に開かれた際、記念会館の設立計画が動き出し、1967年に完成。 西千葉駅構内から続く松林の中に建てられたため、「松韻(しょういん)会館」と命名されました。2016年に改築、周辺整備がなされ、開放的な空間に生まれ変わりました。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
2018年に創立50年を迎えた理学部のルーツは、1949年の「学芸学部」にあります。翌年「文理学部」となり、稲毛・小仲台の陸軍高射学校の跡地に入りました。 旧軍施設を再利用したため、馬小屋が生物学・地学教室に、車庫が化学教室に、工場が物理学教室にそれぞれ転用されました。 こうした環境の中から、戦後の教育研究が出発していったのです。 西千葉キャンパスに移転したのは1963年のことでした。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
郭沫若は、近現代中国の文学者・歴史家として著名な人物です。 草創期の千葉大学に図書や資料が少ないことを嘆いた大槻信良文理学部教授(当時)が、1955年、中国科学院院長の要職に就いていた郭に書籍寄贈の手紙を書きました。 元留日学生の郭は千葉県市川市で十年余り過ごした経験も持っていたため、依頼を快諾し、歴史書など三千冊を寄付してくれました。 現在、それらの文書は附属図書館の貴重書になっています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
工学部の前身は1921年に創設された東京高等工藝学校です。同校は日本の工芸産業教育を牽引し、デザイン界などに多くの人材を輩出しました。 しかし1945年の空襲で焼失したため、松戸市に移転し、その後、千葉大学の工芸学部(のち工学部)に転じました。 JR田町駅の南側、東京工業大学附属科学高等学校がある敷地の一隅に、OBたちの手による同校の「校章」をかたどった記念碑が立っています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)