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空襲を受けた千葉師範学校女子部

千葉師範学校女子部( 現・教育学部)は、太平洋戦争末期、「学校工場」が校内に設けられ、戦時体制に組み込まれました。そうしたなか1945年6月10日、蘇我にあった日立航空機千葉工場とともに空襲に遭い、生徒8名と教職員2名が亡くなりました。1968年、犠牲者の追悼と女子部の存在を記憶するための碑が、当時校舎があったJR千葉駅の駅前大通りに建てられています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

JR千葉駅前大通り(京葉銀行本店前)にある碑

西千葉キャンパスの風景の変貌

戦後、千葉大学が誕生した際の校地は、亥鼻・松戸・小仲台・四街道などに分散していました。西千葉地区は、東京大学生産技術研究所跡地に少しずつ校舎が建てられ、松戸から工学部が移転した1965年に完成します。興味深いのは、完成当初、大学本部と工学部の間を通る弥生通りのけやき並木と桜並木の大きさが今と全く異なっていたことです。60年近くの歴史を経て、西千葉の風景も日々変貌しつつあるのです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

けやき並木(左)に比べて桜並木(右)は低い(1976年撮影)
(出典:田町・松戸・西千葉「写真で見る七十年史」―千葉大学工学部のあゆみ)

千葉県初の甲子園出場は千葉県師範学校

1915年に始まった全国中等学校優勝野球大会に、千葉県勢として初出場したのは、千葉県師範学校(千葉大学教育学部の前身)でした。1926年の南関東予選で、7点先行した水戸中学から8点取り、サヨナラ勝ちしたのですが、22校による本大会は、初戦で新潟商業に4-9と敗れました。同校の出場は、その1度だけでした。一方、戦前期の千葉県では、千葉中学校( 現在の県立千葉高等学校)が最多の4回を数えます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

当時の部員たちの集合写真
(出典:「千葉師範記念アルバム」船橋市郷土資料館 所蔵)

医療系三学校の記念碑

附属図書館亥鼻分館前の記念碑は、かつてこの地にあった医学部附属看護学校、助産婦学校、診療放射線技師学校が閉校する際、各同窓会がその記憶を留めるため、2002年に建てたものです。そこには1901年開校の県立千葉病院看護法講習所、また県立千葉病院産婆学講習、医学部附属診療エックス線技師学校以来の卒業生総数が5,539名にのぼることが刻まれています。(大学院国際学術研究院 見城 悌治)

附属図書館亥鼻分館前にある記念碑

東京高等工芸学校で学んだ コロンビアの有名画家

コロンビアの著名な風景画家ゴンサロ・アリサ氏(Gonzalo Ariza:1912~95年)は、1936年頃に工学部の前身である東京高等工芸学校に留学生として半年ほど在籍し、そこで写真や印刷を学びました。茶道や陶芸にも深い関心を寄せたほか、日本の自然観を踏まえた絵画技術を修め、懇意となった藤田嗣治とも交流を深めたそうです。1955年には駐日コロンビア大使館の文化担当一等書記として再来日し、東京で個展を開くなど、日本との文化交流にも貢献しています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

左:ゴンサロ・アリサ氏(ご長男Francisco 氏 提供)
右:ゴンサロ・アリサ氏の作品『コロンビア熱帯草原』(日本コロンビア友好協会 森 和重氏 提供)

旧小児科病室のタイル画

2021年10月に閉館した医学部本館は1937年に竣工した附属病院でした。当時の小児科教授・詫摩武人(乳児栄養学の第一人者)は、新しくなった小児科の病室壁面に様々なタイル画を作成しました。現在も、うさぎ、象、孔雀などの動物、鉄道や帆掛け船などの交通機関のほか兵隊の行進などがきれいに残っています。入院中の子どもたちに安らぎを与え、心にも栄養を与える配慮であったと思われます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

医学部本館4階の旧小児科病室の壁面を彩る様々なタイル画

園芸OBが建築したドイツ風洋館

1915年に千葉県立高等園芸学校(園芸学部の前身)を卒業した土岐章(1892~1979)は沼田藩(群馬県)藩主土岐頼知の子息で、1918年には子爵となります。ドイツ留学の経験があった土岐は、1924年に渋谷にドイツ風の洋館を建てました。その後、1990年に所縁の地・沼田市に移築され、登録有形文化財として公開されています。沼田市内には千葉大学の森林環境園芸農場もあり、不思議な縁を感じるところです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

旧土岐家住宅洋館(写真提供:沼田市教育委員会)

50年使われた稲毛寮の解体

稲毛区小仲台に1965年に建設され、2016年3月に閉寮された稲毛寮が、この夏に解体されます。1部屋に2名が住み、定員は208名でしたので、50年で10,000名近い学生が青春の日々を過ごしたことになります。壁には落書きやシールなど当時の生活のあとが色濃く刻まれています。1990年代までは寮祭が行われ、手作り神輿や仮装行列が駅周辺まで練り出し、町の名物行事だったそうです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

稲毛寮外観

亥鼻キャンパスに祀られている 「牛頭天王」

コロナの流行により疫除けのアマビエに脚光が当たっています。一方、平安時代に京都で流行した疫病封じのため、祇園社に祀られたのが牛頭天王でした。実は医学部と薬学部周辺にある大樹と祠7つからなる「七天王塚」はこれを祀ったもので、石碑の一つには「安永二年(1773)」の文字も見えます。医学部の前身校が1890年に亥鼻の地に移ってくる何百年も前から庶民の信仰を集めていたのです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

七天王塚の配置

松戸キャンパスにある「移管記念」と刻まれた自然石は?

園芸学部の前身である千葉県立園芸専門学校(1909年創設)は、経済面などを理由に、県議会によって「廃校」の決議をされました。しかし、OBたちが国に何度も陳情した結果、29年に国立移管が認められ、存続が決まりました。イタリア庭園内に残るこの記念碑には「本校で学ぶ者は、昔日の苦難と奮闘の歴史に鑑み、精励力行し、母校の発展に尽すことを願う」というOBたちの熱い想いが刻まれています。(国際学術研究院 見城悌治)

国立移管記念碑

文系学部の誕生

1949年に誕生した新制千葉大学に、本格的な文系学部が設置されたのは、文理学部が改組され、人文学部と理学部が生まれた1968年のことでした。人文学部は1981年に文学部と法経学部(2014年法政経学部と改称)へと発展し、人文科学と社会科学について、より深く学びかつ研究する態勢が完成しました。それから40年が経ち、両学部の存在意義はますます大きくなっています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

1978年3月に竣工した人文学部新館

歴史的流行病に対する附属病院の貢献

1918年から流行した「スペイン風邪」は、当時人口147万人の千葉県内に30万もの罹患者を出したと言われています。県立千葉病院(現医学部附属病院)も対応に追われる日々でしたが、県内の看護婦不足が問題となったため、看護婦の育成や実習も併せて担当することになりました。今回のコロナ禍もそうですが、歴史的な流行病に対する、病院関係者の真摯な対応や献身に対しては感謝の言葉しかありません。(学院国際学術研究院 見城悌治)

1920年頃の県立千葉病院
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