附属図書館亥鼻分館には、戦前戦後を通じて集められたきわめて貴重な「古医書コレクション」5500点が収められています。その中の一冊に、1774年に発刊された『解体新書』があります。同書は、杉田玄白たちがオランダ語の原典を苦心の末、翻訳した西洋医学紹介のための記念碑的作品で、高校の歴史教科書にも載せられています。この古医書群は、図書館のウェブサイトから写真版として閲覧することができます。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
『千葉大学五十年史』(1999年)には、1985年頃の千葉大生のイメージイラストが掲載されています(同年発行の『千葉大生白書』からの再収録)。 作者は、7学部で異なる学生イメージをユーモアたっぷりに描いています。 『五十年史』は、「この頃の千葉大生は流行に左右されず、地味であった」と解説していますが、現在はどうなのでしょうか。
1945年7月、激しい空襲を受けた千葉市内では、千葉医科大学も、附属病院(現・医学部本館 ※2015年9月時点)を除き、焼失してしまいました。 こうした状況下で、6月に医大附属医学専門部を、8月には学部も長野県下伊那郡へ疎開させることが決定します。 しかし、この「千葉医科大学天竜分室」開講式挙行の5日後に戦争が終わりました。医療資材の一部は同地に寄付され、それを活かした「長野県立阿南病院」が1948年に誕生 し、現在も地域医療に貢献しています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
県立千葉中学校松戸分校が1901年、松戸町に創立されました。 しかし5年後に廃止となり、校地は私立松戸中学校に貸与されたものの、同校もすぐに閉校となります。 跡地を有効活用するため、1909年に誕生したのが、千葉県立園芸専門学校(現園芸学部)でした。そのため、当初は元松戸中学校生を編入するための予科が設置されていました。 「戸定が丘」の校地は、意外な経緯で現在に至っているのです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉大学創立30周年記念事業の一環として、1982年に、附属図書館本館の塔屋に設置されたのが「やよいの鐘」です。 鐘の表面には、千葉大学の理念である「ADALTIORA SEMPER」(つねに、より高きものをめざして)の文字のほか、千葉大学のルーツとなった7つの旧制学校の校章が刻まれています。 設置当初は正午と夕方に鳴らしていましたが、近年は老朽化などのため、使われていません。 しかしその音色は、大学の公式HPで確認することができます。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
薬学部は1890年に遡る歴史を持ちます。 1918年に新築された「猪之鼻学舎」(当時は千葉医学専門学校薬学科)の上には屋根飾りがありました。 薬学部は、1966年西千葉に移転しますが、旧校舎が解体された82年、屋根飾りは西千葉に運ばれ、85年に構内に展示されます。 そして、歴史ある学舎のシンボルゆえ、2011年、亥鼻地区に戻った薬学部の新校舎前、実はかつてと同じ場所に再設置されたのです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1949年、千葉大学が誕生した際、教育学部(当時は学芸学部)があった場所は、現在の亥鼻キャンパスにほど近い「西猪鼻(現市場町)」でした。 教育学部の前身である千葉師範学校が、1897年から同地で教育を行っていたためです。西千葉に全面移転する1962年までは、ここでの学びが続けられました。 この旧校地には、いま県立中央図書館や県立 文化会館が建っていますが、「教育学部創設の地」を記念する石碑が建てられています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉県南部の鴨川市にある千葉大学海洋バイオシステム研究センターに「こみなと(小湊)水族館」があります。 このセンターは、1932年に設置された水産講習所(現東京海洋大学)付属実験実習場をルーツに持ち、現在は海洋環境とそこに生息する生物の相互関係を研究しています。 水族館は、隣接する展示室ともども、房総の海に棲む生物の研究成果を広く公開しています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
1955年に誕生した学歌の作曲は平井康三郎、作詞は勝承夫です。 平井は東京音楽学校等の教員を務めながら、合唱曲や全国各地の校歌を多く作曲しており、最適任者とされました。一方、作詞は著名な詩人・三好達治に依頼する予定でした。 しかし、平井が、「三好の詩は『見る詩』であり、『朗読する詩』であるため、自信をもって引き受け難い。勝の作品ならば、作曲できる」と答えたため、勝承夫に作詞を依頼したと伝えられます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1950年4月、文理学部が新設された稲毛・小仲台に作られました。 しかし、そこは旧陸軍防空学校跡地で、高射砲を運ぶ専用車を格納していた車庫に床を貼り、仕切りや窓を付けたきわめて粗末な図書館でした。 書庫は20m余り離れた3階建の不燃建造物に設けられましたが、それは模型飛行機を打ち落とすための試射場だったとされます。今の図書館と比べると、隔世の感があります。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
国立大学で唯一の「看護学部」が設置されたのは1975年のことで、医療の急激な発展に対応する専門家の育成に応えるためでした。初年度は変則日程で入試が4月下旬、開講は5月でした。このときの志願者は466名おり、合格者は61名、競争率は7.6倍でした。 初年度の学生は22名が男性(全体比3割)で、看護学部という新しい領域が、社会的に大いに注目されたことが窺えます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
1912年から1931年までの長きに渡り、校長を務めた赤星朝暉の胸像です。 千葉県立園芸学校時代は「経費がかかるのに、千葉県内の学生が少ない」等の理由で県議会から批判され、廃校の危機に面したのですが、赤星たちの尽力で、国立に移管することができました。 その功績を讃えるため、同窓会(戸定会)が彫刻家・高村光太郎(詩人としても有名)に製作を依頼。鋳造は東京美術学校教授だった弟の高村豊周が担当し、1936年に完成したのが、この胸像です。(大学院国際学術研究院 見城悌治)