工学部の前身は1921年に創設された東京高等工藝学校です。同校は日本の工芸産業教育を牽引し、デザイン界などに多くの人材を輩出しました。 しかし1945年の空襲で焼失したため、松戸市に移転し、その後、千葉大学の工芸学部(のち工学部)に転じました。 JR田町駅の南側、東京工業大学附属科学高等学校がある敷地の一隅に、OBたちの手による同校の「校章」をかたどった記念碑が立っています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
西千葉キャンパスの地所は、もともと東京大学生産技術研究所のものでした。 1955年、ここで、糸川英夫東京大学教授(当時)が23センチのペンシルロケット発射に成功し、日本のロケット研究が始まりました。 それを記念する碑が、西千葉駅北口に建っています。現在の千葉大学には、ロケット研究とは異なる、新たな角度から「宇宙」を研究する「ハドロン宇宙国際研究センター」が大学院理学研究院に置かれています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
医学部は1874年設立の千葉町共立病院をルーツとし、140年以上の歴史を持ちます。 明治大正期に活躍した三輪徳寛教授(外科)は「獅子のように細心で大胆な肝力、鷹のような全体を見通し判断する眼力、女性の手のように柔らかい手技」を意味する「獅胆鷹目 行以女手(したんようもくおこなうにじょしゅをもってす)」の格言を、医学生に伝え続けてきました。 その伝統を引き継ごうとする意図から、2011年に新たなマークが作られました。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
松戸キャンパス北隣の「戸定邸」は、水戸徳川家当主で徳川慶喜の弟、徳川昭武が1883年に建設した別邸と庭園で、それぞれ国の重要文化財と国指定名勝に指定されています。 特に庭園は、昭武が1867年のパリ万博で見 た美しい庭園を模したとも言われ、広い芝生の向こうに富士山が見える雄大な風景は、四季折々に心を和ませてくれます。 その南側には、園芸学部のフランス式庭園(1912年完成)があり、不思議な縁も感じさせるところです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉大学では2012年からグローバル人材育成プログラムを開始し、現在は非常に多くの国(地域)の大学と学生交流協定を結んでいます。アラバマ大学(アメリカ:1984年)、湖南大学(中国:1985年)なども古くからの協定校ですが、その第一号は、1982年に協定を結んだドイツのゲッティンゲン大学でした。 留学は他に代えがたい経験です。積極的に挑戦してみませんか? (大学院国際学術研究院 見城悌治)
与謝野晶子です。1924年6月、歌人の与謝野晶子が夫の鉄幹とともに、園芸学校の庭園を訪問。60首の歌を残しています。そのころ、「松戸の園芸学校の牡丹は東京付近で第一」と称えられるほど、園芸学部の前身である千葉県立高等園芸学校の花の美しさは有名でした。「うすものの女の友を待ちえたる松戸の丘のひなげしの花」など2首を刻んだ歌碑が、現在学内に建てられています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
ランプの灯をモチーフにしたものです。1975年、千葉大学に日本の国立大学で初めての看護学部が設置され、そのときに写真のような記念メダルが作成されました。 その表側には、「太陽が沈んだ後も、灯を頼りに続けられる」という看護の仕事を象徴するランプの灯が刻まれていました。 ロゴマークはこのメダルのデザインをアレンジして誕生したものです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
千葉県流山市です。明治維新の後、1872年に近代教育を始めるための学制が発布されると、印旛県印旛郡流山町(現在の流山市)にある常与寺に、印旛官員共立学舎が創設されました。 翌年、千葉県が発足すると、千葉町(現在の千葉市)に移転。名称も千葉学校、そして千葉師範学校と変わり、戦後の教育学部に繋がります。 現在、常与寺には、「千葉師範学校発祥之地」という記念碑が建っています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
亥鼻キャンパスにあります。薬学部が亥鼻から西千葉に移転した1967年、西千葉キャンパスに薬用植物園が設置されました。 また、1968年には館山市に館山圃場も設置されました。その後、2011年に薬学部が西千葉から亥鼻キャンパスへ戻った際、薬用植物園も一緒に移りました。 現在も薬用資源教育研究センター附属薬用植物園として、生薬学など薬学領域の実践的な教育や研究の場として活用され続けています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
松戸にある園芸学部に隣接する農場が手狭になったため、1991年、アメリカ軍柏通信所跡地を譲り受け、広さ25haの「柏農場」が新設されました。 その後、土地の一部を東京大学へ割譲し、現在の「環境健康フィールド科学センター」を2003年に設立。「環境健康学」の拠点として再スタートしました。 2005年には、つくばエクスプレスの駅が設置されたことも併せ、千葉大学の新しい顔となりました。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
文学部考古学研究室は、2002年から2011年まで、3期にわたり、亥鼻キャンパスの発掘調査を行い、弥生時代から古墳時代に至る15戸以上の集落跡や埴輪片を伴う前方後円墳、さらに中近世の陶磁器片を発見する成果を挙げました。 キャンパスの西方にそびえる千葉城(千葉市郷土博物館)は、1967年に史実と関係なく建造されたものですが、亥鼻台は鎌倉時代の千葉氏の拠点だけではなく、長きにわたる先人の営みがあったことを発掘は明らかにしたのです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
1919年千葉県師範学校(教育学部の前身)の附属小学校に、赴任した手塚岸衛は、教員の考えを画一的に押し付けるのではなく、子どもの考えを自由に発表させる等の「自由主義教育」を展開します。 大正デモクラシーという思潮を背景に、県内外から大勢が授業見学に訪れ、社会的にも大きな影響を与えていきました。 しかし、こうした実践は次第に批判を浴び、手塚が他校に転勤させられる中、この斬新な試みは終焉してしまいます。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)