CHIBA UNIVERSITY

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西千葉は「宇宙研究」発祥の地

西千葉キャンパスの地所は、もともと東京大学生産技術研究所のものでした。 1955年、ここで、糸川英夫東京大学教授(当時)が23センチのペンシルロケット発射に成功し、日本のロケット研究が始まりました。 それを記念する碑が、西千葉駅北口に建っています。現在の千葉大学には、ロケット研究とは異なる、新たな角度から「宇宙」を研究する「ハドロン宇宙国際研究センター」が大学院理学研究院に置かれています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

記念碑は貫井正納名誉教授が理事長をつとめるNPO法人ちばサイエンスの会が建立

教育学部の原点となった場所

千葉県流山市です。明治維新の後、1872年に近代教育を始めるための学制が発布されると、印旛県印旛郡流山町(現在の流山市)にある常与寺に、印旛官員共立学舎が創設されました。 翌年、千葉県が発足すると、千葉町(現在の千葉市)に移転。名称も千葉学校、そして千葉師範学校と変わり、戦後の教育学部に繋がります。 現在、常与寺には、「千葉師範学校発祥之地」という記念碑が建っています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

流山市にある常与寺

大正時代に「附属小学校」が全国から注目された理由

1919年千葉県師範学校(教育学部の前身)の附属小学校に、赴任した手塚岸衛は、教員の考えを画一的に押し付けるのではなく、子どもの考えを自由に発表させる等の「自由主義教育」を展開します。 大正デモクラシーという思潮を背景に、県内外から大勢が授業見学に訪れ、社会的にも大きな影響を与えていきました。 しかし、こうした実践は次第に批判を浴び、手塚が他校に転勤させられる中、この斬新な試みは終焉してしまいます。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

手塚岸衛著『自由教育真義』 (1922年)附属図書館蔵

「やよいの鐘」とは?

千葉大学創立30周年記念事業の一環として、1982年に、附属図書館本館の塔屋に設置されたのが「やよいの鐘」です。 鐘の表面には、千葉大学の理念である「ADALTIORA SEMPER」(つねに、より高きものをめざして)の文字のほか、千葉大学のルーツとなった7つの旧制学校の校章が刻まれています。 設置当初は正午と夕方に鳴らしていましたが、近年は老朽化などのため、使われていません。 しかしその音色は、大学の公式HPで確認することができます。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

附属図書館屋上に設置されている「やよいの鐘」

教育学部が最初にあった場所

1949年、千葉大学が誕生した際、教育学部(当時は学芸学部)があった場所は、現在の亥鼻キャンパスにほど近い「西猪鼻(現市場町)」でした。 教育学部の前身である千葉師範学校が、1897年から同地で教育を行っていたためです。西千葉に全面移転する1962年までは、ここでの学びが続けられました。 この旧校地には、いま県立中央図書館や県立 文化会館が建っていますが、「教育学部創設の地」を記念する石碑が建てられています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

亥鼻公園にある「千葉大学教育学部記念碑」

附属図書館本館が最初にできた場所

1950年4月、文理学部が新設された稲毛・小仲台に作られました。 しかし、そこは旧陸軍防空学校跡地で、高射砲を運ぶ専用車を格納していた車庫に床を貼り、仕切りや窓を付けたきわめて粗末な図書館でした。 書庫は20m余り離れた3階建の不燃建造物に設けられましたが、それは模型飛行機を打ち落とすための試射場だったとされます。今の図書館と比べると、隔世の感があります。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

現在の附属図書館

留学生教育の拠点だった千葉大学

千葉大学には1960年から63年まで「留学生課程」、64年から72年まで「留学生部」が置かれ、全国の国立大学理科系に3年次編入を希望する国費留学生の日本語や基礎科目の教育が3年間の課程で行われていました。 この課程があったのは、千葉大と東京外大の2校だけで(外大は文系学生を担当)、千葉で学んだ留学生の総数は433名(20の国・地域)に上ります。 この伝統は1991年創設の留学生センター(のち国際教育センター)に引き継がれていきます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

「留学生部」は南門のそばにあった(1965年)

かつて松戸にあった工学部のキャンパス

工学部は、1922年4月、東京・田町に開校された東京高等工芸学校をルーツとしています。同校は、工芸図案や金属工芸、印刷・写真などが学べるきわめて特色ある官立学校でしたが、1945年5月の空襲で焼失したため、戦後の同年10月千葉県松戸市岩瀬の元陸軍工兵学校跡に移ってきました。 そして、1949年、千葉大学工芸学部として再出発します(51年に工学部に変更)。 そのため、キャンパスは、1964年までの20年間、松戸に置かれていました。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

松戸時代の工学部本部

「西千葉キャンパス」は、どのように作られてきたのか?

西千葉地区は、1942年に「東京帝大第二工学部」として開かれた場所で、その10年後には「東京大学生産技術研究所」となりました。 一方、1949年に誕生した千葉大学は、校舎が市内3カ所と松戸市2カ所、また四街道市にも分散しきわめて不便でした。それを解消するため、東大敷地中の8割を千葉大の拠点キャンパス地として譲り受けたのです。 そこに諸学部が集まり始めたのは、1962年からです。なお、東大の実験所として残された2割の土地は、2025年に至り、半分は千葉大学の用地に、半分は民間の用地となり、整備されつつあります。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

1948年の西千葉(東大第二工学部)の航空写真
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