1945年7月、激しい空襲を受けた千葉市内では、千葉医科大学も、附属病院(現・医学部本館 ※2015年9月時点)を除き、焼失してしまいました。 こうした状況下で、6月に医大附属医学専門部を、8月には学部も長野県下伊那郡へ疎開させることが決定します。 しかし、この「千葉医科大学天竜分室」開講式挙行の5日後に戦争が終わりました。医療資材の一部は同地に寄付され、それを活かした「長野県立阿南病院」が1948年に誕生 し、現在も地域医療に貢献しています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
薬学部は1890年に遡る歴史を持ちます。 1918年に新築された「猪之鼻学舎」(当時は千葉医学専門学校薬学科)の上には屋根飾りがありました。 薬学部は、1966年西千葉に移転しますが、旧校舎が解体された82年、屋根飾りは西千葉に運ばれ、85年に構内に展示されます。 そして、歴史ある学舎のシンボルゆえ、2011年、亥鼻地区に戻った薬学部の新校舎前、実はかつてと同じ場所に再設置されたのです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
国立大学で唯一の「看護学部」が設置されたのは1975年のことで、医療の急激な発展に対応する専門家の育成に応えるためでした。初年度は変則日程で入試が4月下旬、開講は5月でした。このときの志願者は466名おり、合格者は61名、競争率は7.6倍でした。 初年度の学生は22名が男性(全体比3割)で、看護学部という新しい領域が、社会的に大いに注目されたことが窺えます。(大学院国際学術研究院 見城悌治)
「医学の祖」ヒポクラテスの胸像が医学部新館の玄関正面(4階部分)に据えられています。これは、イタリアのウフィツィ美術館が例外的に複製を認めた五体中の一体できわめて貴重な像とされます。 また、旧正門正面の庭内左側および附属病院の前庭には、ギリシャから頒けられた「ヒポクラテスのすずかけの木」が立っています。 像も木もそばに由来の説明がありますが、これらは若き医学徒に「ヒポクラテスを鑑とし《医の倫理》を学んで欲しい」と願うOBから各々寄贈されたものです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
「七天王塚」と呼ばれ、それぞれ「牛頭天王」が祭られています。 この塚は、亥鼻キャンパス内に五つ、外に二つあり、源平期から戦国期まで当地を支配していた千葉氏の守り神を祀っているとされます(上から見ると、北斗七星状に配列されています)。 「平将門に関わる古跡だ、枝を切ると祟りにあう」等の伝承もあり、千葉大学随一のパワースポットと言えるかもしれません。 なお、樹種はタブが多く、樹齢数百年の大木もあります。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)
1911年に辛亥革命が起こった際、千葉医学専門学校(当時)には、40名余の清国留学生がいました。 彼らが「赤十字隊を結成し、敵味方ない人道的救援に赴きたい」と訴えたのを受け、教職員や学生が医薬品購入のため義援金を拠出し、さらに教員たちは緊急医療技術を伝授しました。 復学した留学生たちが、学校関係者に感謝するため建てた「紀念碑」は、今も旧医学部本館前にあります。この碑は国際支援・交流の得難い証人と言えるでしょう。(大学院国際学術研究院 見城悌治)