CHIBA UNIVERSITY

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亥鼻キャンパスに祀られている 「牛頭天王」

コロナの流行により疫除けのアマビエに脚光が当たっています。一方、平安時代に京都で流行した疫病封じのため、祇園社に祀られたのが牛頭天王でした。実は医学部と薬学部周辺にある大樹と祠7つからなる「七天王塚」はこれを祀ったもので、石碑の一つには「安永二年(1773)」の文字も見えます。医学部の前身校が1890年に亥鼻の地に移ってくる何百年も前から庶民の信仰を集めていたのです。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

七天王塚の配置

松戸キャンパスにある「移管記念」と刻まれた自然石は?

園芸学部の前身である千葉県立園芸専門学校(1909年創設)は、経済面などを理由に、県議会によって「廃校」の決議をされました。しかし、OBたちが国に何度も陳情した結果、29年に国立移管が認められ、存続が決まりました。イタリア庭園内に残るこの記念碑には「本校で学ぶ者は、昔日の苦難と奮闘の歴史に鑑み、精励力行し、母校の発展に尽すことを願う」というOBたちの熱い想いが刻まれています。(国際学術研究院 見城悌治)

国立移管記念碑

文系学部の誕生

1949年に誕生した新制千葉大学に、本格的な文系学部が設置されたのは、文理学部が改組され、人文学部と理学部が生まれた1968年のことでした。人文学部は1981年に文学部と法経学部(2014年法政経学部と改称)へと発展し、人文科学と社会科学について、より深く学びかつ研究する態勢が完成しました。それから40年が経ち、両学部の存在意義はますます大きくなっています。(大学院国際学術研究院 見城悌治)

1978年3月に竣工した人文学部新館

歴史的流行病に対する附属病院の貢献

1918年から流行した「スペイン風邪」は、当時人口147万人の千葉県内に30万もの罹患者を出したと言われています。県立千葉病院(現医学部附属病院)も対応に追われる日々でしたが、県内の看護婦不足が問題となったため、看護婦の育成や実習も併せて担当することになりました。今回のコロナ禍もそうですが、歴史的な流行病に対する、病院関係者の真摯な対応や献身に対しては感謝の言葉しかありません。(学院国際学術研究院 見城悌治)

1920年頃の県立千葉病院

海外の使節団をもてなした園芸学部の前身校の庭園

1936年、ブラジル経済使節団一行が、園芸学部の前身校である千葉高等園芸学校を訪問しました。 当時の新聞によれば「東洋一を誇る大温室をはじめ果樹蔬菜園を視察、教育施設の完備に賛嘆の声を放ち、新庭園の秋色を賞した」(『朝日新聞』同年9月24日夕刊2面)。 さらに、1938年には「ペルー経済文化使節団」も来訪しています(『朝日新聞』同年11月2日夕刊1面)。東京近郊で、美しい庭園を備えていた同校は、海外の賓客をもてなす場となっていたようです。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

当時の温室

日本最初のラジオ放送は工学部の前身校から

工学部の前身校は、JR田町駅の南西にあった東京高等工芸学校でした。 1924年11月に東京放送局(現在のNHK)が誕生した際、仮放送所は同校の図書室に置かれました。そして翌年3月22日、そこから、日本最初のラジオ放送が行われたのです。 その後、放送局は愛宕山に移転し、7月から本放送が開始されます。そして現在、東京・田町の学校跡地には、「放送記念碑」が建てられています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

医学部の旧正門前にあるオブジェ

医学部創立85周年(1960年)記念に建てられた記念像で、右側面に長尾精一先生像、左側面に荻生録造先生像のレリーフがはめ込まれています。 長尾は1880年に公立千葉病院長として赴任以来、官立第一高等学校医学部、官立千葉医学専門学校と組織が変遷しても校長を歴任。 荻生は1902年に長尾の後を継ぎ、同校を発展させ続けた功績を称える文章がこのオブジェに刻まれています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

西千葉キャンパスの玄関口にある建物の由来

南門を入ってすぐのY字路に立っている瀟洒(しょうしゃ)な建物は、工学部の施設です。 同学部の前身校に当たる「東京高等工芸学校」の創立40年記念会が1961年に開かれた際、記念会館の設立計画が動き出し、1967年に完成。 西千葉駅構内から続く松林の中に建てられたため、「松韻(しょういん)会館」と命名されました。2016年に改築、周辺整備がなされ、開放的な空間に生まれ変わりました。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

改装前の松韻会館(2015年8月撮影)

理学部は稲毛・小仲台から始まった

2018年に創立50年を迎えた理学部のルーツは、1949年の「学芸学部」にあります。翌年「文理学部」となり、稲毛・小仲台の陸軍高射学校の跡地に入りました。 旧軍施設を再利用したため、馬小屋が生物学・地学教室に、車庫が化学教室に、工場が物理学教室にそれぞれ転用されました。 こうした環境の中から、戦後の教育研究が出発していったのです。 西千葉キャンパスに移転したのは1963年のことでした。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

1956年ころの文理学部(左正面は新築した学生ホールでその後ろが元車庫、右後ろの建物が元馬小屋)

医学部の起源となった千葉町共立病院

1874年、千葉県令の呼びかけに応じた千葉町の有志と三井組が資金を出し、共立病院ができました(院内公園付近)。 76年には移転し、医学教場を併設した公立千葉病院になりました(「きぼーる」付近)。 医学部創立85周年として1960年にそれぞれ記念碑が建てられました。 千葉町民からの寄金で作られた共立病院を、医学部がその起源としていることは、意義深いものがあります。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

千葉市内にある記念碑

留学生がもたらした小玉スイカ

園芸学部の前身「千葉高等園芸学校」初の留学生は、1916年に入学した繆嘉祥(びゅうかしょう)でした。 彼が中国から持って来たスイカの試作に、橋本章司教授が成功し、後の小玉スイカの育種として大きな役割を果たしました。 橋本教授が「嘉宝」と命名したこのスイカは、現在でも手軽に入手でき、人気があります。 その由来こそ忘れられていますが、「嘉宝」の名付けが師弟関係の深さを今に伝えています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

1932年3月卒業写真。現在のフランス庭園前にて(「千葉高等園芸学校校友会会報」21号)

附属図書館の「郭沫若(かくまつじゃく)記念文庫」

郭沫若は、近現代中国の文学者・歴史家として著名な人物です。 草創期の千葉大学に図書や資料が少ないことを嘆いた大槻信良文理学部教授(当時)が、1955年、中国科学院院長の要職に就いていた郭に書籍寄贈の手紙を書きました。 元留日学生の郭は千葉県市川市で十年余り過ごした経験も持っていたため、依頼を快諾し、歴史書など三千冊を寄付してくれました。 現在、それらの文書は附属図書館の貴重書になっています。 (大学院国際学術研究院 見城悌治)

市川市にある郭沫若記念館
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