パリ五輪も佳境を迎え、いよいよ今月後半からはパリ2024パラリンピック競技大会(以下、パリパラリンピック)が開幕を迎えます。東京2020パラリンピック競技大会でパラバドミントン男子シングルス(WH1)5位という成績を残し、今回連続出場を決めたのは、千葉大学出身の長島理(ながしま おさむ)選手です。
普段は企業研究者として働きながら、アスリートとしても活躍する二刀流の長島選手の原点とも言える大学生活について、学生時代に所属していた研究室の恩師でもある佐藤智司副学長(大学院工学研究院教授)にもお越しいただき、お話を伺いました。
事故で1年間の休学を余儀なくされるも、仲間の手紙が復学のモチベーションに
パリパラリンピック出場決定おめでとうございます!まずは長島選手がバドミントンを始めたきっかけから教えてください。
長島さん(以下、敬称略)
ありがとうございます!きっかけは、中学時代に部活をやるならしっかり取り組んでいるところに入りたいと思い、選んだのがバドミントン部だったことです。高校まで部活を続けたのですが、大学では勉強はもちろん、一人暮らしやアルバイトもしたいと思い、部活ではなくバドミントンサークル(B.A.S.S.)を選びました。
そして在学中にお怪我されてしまったと…。
長島
大学2年生終了後の春休みに自動車の下敷きになってしまい、1年間休学して約10カ月間の入院とリハビリ生活を余儀なくされました。入院中は携帯の電源を切っていたのですが、事情を知ったサークルの仲間が全員で手紙を書いてくれたんです。そこにあったのは「長島がいないとサークルが盛り上がらない」「ずっと待ってるから」といったメッセージでした。
これが復学の大きなモチベーションとなり、絶対にサークルにも復帰したいという意欲が湧きましたね。退院後は車椅子での生活となってしまいましたが、メンバーも快く受け入れてくれました。しばらくはサークルで楽しくプレーを続けていたのですが、学年が上がるにつれて後輩たちがサークルの中心になっていったので、同時に所属していた障がい者バドミントンクラブにも積極的に通うようになっていきました。
その当時は、選手として続けていきたいという気持ちだったのですか?
長島
いえ、全然(笑)。元々は「サークルに戻りたい」という気持ちが一番で、バドミントンを楽しみたい、もう少しうまくなりたいくらいに考えていました。あとはちょっと打算的ですが、就職活動を控えていたということもあり、一つの特技としてアピールする材料になればいいな、と思って(笑)。
しかし、クラブの方から「長島くんはうまいから今度合宿に行ってみたら?」「大会があるから出てみない?」というようなお誘いを受け、参加するようになっていったんです。
当時パラバドミントンは「障がい者バドミントン」と呼ばれ、選手も少なくプレーのセオリーや車椅子のセッティングなども確立していないような黎明期で、多様なキャリアの選手がいました。私は車椅子の使用歴はまだ長くはありませんでしたが、バドミントンは中学時代から始めていたこともあり、「バドミントンの技術でなら通用する」という手ごたえを感じていました。そういったなかで、第1回アジア障害者バドミントン選手権(2004年)が開催され、参加することになりました。
ここでベスト4に入れたということもありますが、自分よりもスピードがあって強い選手を目の当たりにし、「もっとうまくなりたい、強くなりたい」という気持ちが増していったんです。就職も決まっていましたが、この大会での経験は、社会人になっても続けていきたいとはっきり思うきっかけになりました。
まずはやってみて、反応を見ながら改善を積み上げる。研究にもプレーにも共通する「長島スタイル」
そこから就職をされて、研究者と選手の二刀流としての生活が始まりました。
長島
はい、あくまで仕事が優先で、できる範囲で選手を続けます、というスタンスではありましたが…。当時はまだパラスポーツ自体の認知もあまりなく、ほとんどの選手は有給休暇を取って合宿や大会に参加しているような状況でした。
ただ、幸い私は所属していた研究所の所長を筆頭に社員の皆さんが前向きに応援してくれたので、とても良い環境のなかで仕事とプレーに取り組むことができました。
研究者と選手を両立することで得たものや役に立ったことなどはありますか?
長島
はい。そのベースは佐藤研究室に所属して触媒研究※を行っていた学生時代に遡ります。この分野はざっくりとした理論はあるものの、実際のところは「やってみないとわからない」というのが特徴です。より新しい、性能の高い触媒を開発するためには、理論を元に仮説を設定し、現象を大雑把に掴みながら実験を繰り返し突き詰めていくことが重要である、と佐藤先生から学びました。
これは現在会社で進めているアジャイル開発※※とも非常に近いですし、選手としての健康管理やプレーの改善にも生きています。研究室時代の経験により、今では研究・競技双方で「まずはやってみて、改善する」のスタイルが確立していきました。
※有機資源を特定の有用化合物へ変換できる固体触媒の研究
※※アジャイル開発:計画、設計、実装、テストの4つのフェーズをくり返しながら開発を進める手法
それではここから佐藤先生にも入っていただき、礎を築かれた大学時代を振り返っていこうと思います。まず、佐藤先生の研究室に入られた理由を教えていただけますか?
長島
当時、研究室は成績順に選ぶことができたのですが、私は障がいを抱えていたので思うように選ぶことができず、ちょっとやさぐれていたんです(笑)。そのような中で、当時の副担任の先生から16ある研究室に声がけをしていただいたところ、5つが受け入れの意思を示してくれ、最も興味のあった佐藤先生の研究室にお世話になることにしました。
佐藤副学長(以下、敬称略)
躊躇された研究室があったのは事実ですが、有機化学の分野では引火物を扱うことが多く、危険が伴うので受け入れられないと回答するのはやむを得ないところもありました。
ただ、実は長島さんは首席で卒業するほど優秀な学生だったんです。それほど成績の良い学生が困っていたので、とにかく「やってみたい」という意欲に対して応えるのは私たちの役目だと考えました。
幸い私の研究室には車椅子が通れる通路が確保されていたので、実験装置の高さを30cm下げて彼専用のスペースを作るなど、研究ができるように環境を整えました。
研究室時代の長島さんはどのような学生でしたか?
佐藤
この分野は「他にもっと良い触媒がある」と言われた瞬間にその研究が意味をなさなくなってしまいます。そういう意味ではとにかく粘り強く、スピード感を持って色々と試していく行動力を持つことが必要になります。長島さんはとにかくこの点において優れていました。
長島
私はもともと自分がやることを決めたらそれだけを見て、一直線に進んでいくような人間だったんです。さまざまな仮説を立てて、数をこなしながら正解に近づけていくというような考え方は、研究室での取り組みで学ぶことができたと考えています。
佐藤
そのようなスタンスが功を奏し、長島さんが研究室時代に書かれた論文は、現在注目されているバイオジェット燃料の開発研究とも親和性が高く、現在でも年数件コンスタントに合計160件以上引用されています。
仕事もスポーツもプライベートも「主体的に」やってみよう
ありがとうございます。それでは長島さんから千葉大生に向けてメッセージをお願いします。
長島
学生時代を振り返って一番良かったのは、色々なことを「主体的にやっていた」ということです。バドミントンや研究はもちろん、アルバイトなども、どういう目的でやるかを考えること、そして楽しくやることはとても大切なことです。前向きに取り組んでいると次のやることが見つかってくるので、その繰り返しこそが人生を豊かにすると思っています。
後もう一つお伝えしたいのは、大学時代の友人はとても大切だということです。今回パリパラリンピックへの出場が決まって多くの人からお祝いのメッセージをいただきましたが、やはり昔からの自分を知っている学生時代の友人からの言葉が一番うれしかったんです。そういう人たちがいるから今の自分がある。そう考えると、大学時代の友人はずっと大切にしてほしいなと思います。
最後にパリパラリンピックに向けて佐藤先生から長島選手へのメッセージ、長島選手からの意気込みをお願いします。
佐藤
「がんばれ」と言わなくてもがんばるのが長島選手です。もう残り少ない期間なので、無理はしすぎず、ベストコンディションを作ること。そして何より大会自体を楽しんでもらいたいです。
長島
国内外の厳しい戦いの中で勝ち取ることができた出場権であり、これを無駄にしたくないという思いです。千葉大学出身者でパラリンピックのメダルを取った人はまだいないと思うので、ぜひメダルを持って千葉大学に行けるようにしたいと思います。応援よろしくお願いします!
長島選手ありがとうございました!パラリンピックでのご活躍をわたしたちも応援しています。
長島 理(ながしま・おさむ)選手 略歴
1998年 千葉大学工学部物質工学科 入学
2000年 大学2年時に事故により脊髄損傷、1年間休学(2000年度)
2003年 千葉大学工学部物質工学科 卒業、千葉大学自然科学研究科 物質化学工学専攻 修士課程入学
2005年 千葉大学自然科学研究科 物質化学工学専攻 修士課程修了
株式会社INAX(現 株式会社LIXIL)入社
2024年 株式会社LIXIL 環境技術開発部(現職)