世代を超えた国民的ヒーロー、あのアンパンマンの生みの親やなせたかし氏は、千葉大学工学部の前身である東京高等工芸学校図案科の卒業生(昭和15年卒業)です。卒寿を迎えた大先輩に、アンパンマン誕生のきっかけや学生時代の思い出などを伺いました。

――なぜ他のパンではなくて「アンパン」だったのでしょうか?
昔はあまりお菓子の種類がなく、パンといえばアンパン、ジャムパン、クリームパンくらいしかありませんでした。その中で一番発音がしやすいのが「アンパン」だったんですね。遠足の定番といえば握り飯とアンパン、映画館に行けばせんべいとキャラメルとアンパンと、一番身近なパンでもありました。それにバターやクリーム、ジャムというのは日本産とは言えないでしょう。でもあんこは世界を見渡しても日本にしかない、そしてこれがまた美味しい。唯一中国にもアンマンのようなものがあるけれど、これは蒸さないと食べられない。でもアンパンはそのまま食べられるでしょう。日本的で、手軽で、そして発音が単純、だから「アンパン」にしたのです。
――アンパンマン以外にもたくさんキャラクターがいますね。
アンパンマンを書き出してからしばらくすると、アンパンマンだけではもたなくなってきた(笑)。キャラクターはほとんど自分で考えてきていますが、唯一「メロンパンナちゃん」は読者からの要望で作ったキャラクターです。調べてみたらメロンパンといっても色々な種類があるんですよね。その中でも一番スタンダードなのが、丸くて、切れ目があってそこにメロンジュースが沁みているものだということが分かったのですが、その切れ目を再現しようにも顔に傷があるというのはキャラクターとしてはイマイチ。そこで目の周りにアイシャドーのように色を入れてみたら可愛くなった。「しょくぱんまん」はキャラクターの中に二枚目がいた方が良いと思って作りました。食パンは学校給食で一番多く登場するパン。給食だから清潔でなければいけない。二枚目なので気取っている。なので、白い衣装で白い車で登場するキャラクターにしたのです。将来は「しょくぱんまん」と結婚したいという女の子もいるくらい、モテるキャラクターですね。
――唱歌「手のひらを太陽に」の作詞もされていますね。
この歌は40年ほど前に作りました。ちょうどその頃、日本教育テレビ(現テレビ朝日)のニュース番組の構成をやっていたのですが、そこで今月の歌というコーナーがあり、最初に作ったのが「手のひらを太陽に」です。僕はもともと、大人を対象にした漫画を描く作家でした。今は漫画といえば劇画やコミックといった長編が主流ですが、昔は本の中にあるコーナーで風刺的なものを書くというのが漫画でした。それがこの頃から長編が出始め、僕の漫画の仕事も減っていったんですね。それが残念で仕方なく、漫画家なのに漫画を描かないなんて…と自分の手のひらを懐中電灯ですかしてみたのです。そしたら赤い血が元気に流れている。どんなに落ち込んでいても、自分の血はこんなにも元気に流れているんだということに気がつき、歌詞を思いつきました。なので、元は自分を元気づけるための歌だったんです。そのうちにNHKのみんなの歌で取り上げられ、小学校の教科書に掲載され、全国的に愛される唱歌になりました。まさかこんなにも長く歌われる歌になるとは、思ってもいませんでした。
――他にも歌や絵本、多くのキャラクターデザインをされていますが、創作する上でのポリシーを教えてください。
僕はアンパンマンの歌もすべて自分で作っています。映画もテレビアニメも、全編すべて自分でチェックします。そして良いと思った作品には賞金を出します。年に1回「全世界アンパンマンアカデミー賞」を開催し、その年の良い作品を5本選んで表彰しています。何を良しとするか、それは自分が“これが良い”と思うかどうか、自分に合うか合わないか、自分が面白いと思うかどうかであり、基準はすべて自分にあります。
――東京高等工芸学校図案科を選んだ理由を教えてください。
デザインそのものに始めから興味があった訳ではなく、絵が好きだったので芸大に行きたいと思っていたのですが、絵では飯が食えない、図案なら大丈夫だろうということで東京高等工芸学校を選びました。入ってみてびっくりしましたね。みんなデザインに詳しくて、何も知らないのは僕くらいでしたから。僕は配色すらできませんでした。
――どんな学校生活だったのでしょうか。
入学してすぐ、君たちはデザイナーを目指している、学校で机にかじりついていても良いデザインは浮かばない、幸いこの学校は銀座に近い、毎日銀座に行って色々見て来い、それが君たちの栄養になると先生に言われました。僕は真面目な学生だったから(笑)、毎日18時ごろから終電まで、銀座をぶらぶら歩き回ったものです。自由主義を標榜してできた学校でしたから、もちろん試験や学科はあるのですが、実習は自由にできたので、1年生の頃は喉自慢大会やら相撲大会やらと遊んでばかりでしたね(笑)。しかし2年生になると、毎日こんなに遊んでいて卒業したらどうするんだ?と愕然とし、それから自分で勉強するようになりました。デッサン教室や図書館、展覧会にも行くようになりました。良い作品は学校に残してくれるので、友だちに刺激を受けながら、次第にプロ風になっていきました。
――卒業後、グラフィックデザイナーなどを経て漫画家・絵本作家になられていますね。
卒業後は百貨店の宜伝部でグラフィックデザイナーになりましたが、色々な人が色々なことを言ってきて、それに従わないといけない。なにせ自由主義の学校で育ったので、束縛されることが嫌でたまらず、自由な仕事がしたいと思ったのです。仕事の傍らで漫画を描き、投稿していたのですが、次第に原稿料が入るようになり、それが給料の3倍になった時に仕事を辞め、漫画家になりました。元がグラフィックデザインの出なので、いまでもアンパンマンの映画のポスターなど、すべて自分で描いていますよ。

――最後に、今の若い人たちへのメッセージをお願いします。
自分が一番好きなこと、つまり自分の天職を見つけて欲しいと思います。登山家は、どんなに息切れしても、重い荷物を背負っても、凍傷になっても、なおまだ山を登る。なんで?好きだからです。自分はいったい何が好きなのか。それを見つければ、たとえどんなに苦労しても、人生はそう辛いものではありませんよ。
*当時掲載されたPDFは下記リンクからご覧いただけます。
ちばだいプレス2009 Vol.4